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映画史上の最高傑作だと思う。
脚本家の野田高梧さんが「『東京物語』は誰にでも書けるが、これはちょっと書けないと思う」と仰っていたそうだが、確かにこんな脚本は後にも先にもこの作品だけしかない。
野田さんの発言の文脈は知らないが、『東京物語』は確かに他の監督であっても書きそうなストーリーである。というのはストーリーの輪郭が明瞭だし、登場人物の死でもって一応のピークが来るというところは、オーソドックスな脚本だ。しかし、この脚本は違う。
登場人物たちが抜け落ちているのだが、その抜け落ちた登場人物たちが確かに物語に影響をあたえているのだ。それは紀子の同級生だったり、専務の紹介で縁談の相手になる真鍋だったり、間宮家の次男である省二だったり、矢部の亡き妻だったりする。こういうところは寧ろ映画では写すに決まっているシーンだし。省略するにしても、死者はせめて写真だけでも写して感動させたいのが映画作家の常である。そんな映画はゴマンとある。
けれど、この映画は違う。視線は定点から生きている登場人物たち全員に等しく注がれている。そこには現在しかない。過ぎて行った過去、人たちは、しかし、空気のように瀰漫している。私たちは杉村晴子扮する矢部の母が間宮家の訪れた折、南方から返らぬ省二の話に及んだ時に、すーっときれいな水でも飲むように彼らのあわれが身にしみる。東山千栄子が窓の外の鯉のぼりに眼をやったとき、そこにふと失った何かを目にする。
そうなのだ、と思う。生きている私たちは、死者に生きて出会うことはないのだ。生きているということは、美しく、残酷にもそういうことなのだ。小津さんに会えて良かった。この国に産まれて、日本語で映画を見れて、本当に良かった。
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